|
今年もまた、寒く厳しい冬がやってきた。海の水は澄みきって、水面近くには小魚が群れをなして泳いでいる。ときおり岸壁沿いに歩く人影が、常夜灯の明かりによってチラチラと見え隠れする。
水面の小魚たちは気にとめるようすもなく泳いでたが、その人影が海面に映りこむと、慌ててその影のない方向へと逃げ惑っている。影の主は長い棒のようなものを片手に、夜の岸壁沿いを歩き回っていた。何やらその棒を振りながら、「ポチャン」と静かな海へと投げ込んでいる。
それまで静寂だったのに、辺りはいっせいに騒がしくなってきた。その「何か」が着水することで、周辺の小魚たちはパニック状態になって泳ぎ回っている。一気に素早く逃げ惑うもの、そして逃げ遅れてしまい慌てて水面を飛び跳ねるものもいた。
静寂な闇は突然その影の主によって引き裂かれ、突如として海の中はパニックと化した。その影の主は、どうやら夜の釣りを楽しみに来た釣り人のようだ。長い棒は釣竿で、投げ込まれた「何か」はルアーと呼ばれる疑似餌らしい。
その昔、ルアーフィッシングが始まった頃、湖に落としたスプーンにトラウトが飛びついたのをヒントにして考えられたというルアーが使われるようになった。しかしその投げ込まれたルアーは金属のようなものではなく、なまめかしくユラユラうごめき、柔らかなイメージを連想させるような代物であった。
「これが世間で噂になっている、ルアーというものなのか?」と疑問に感じながら眺めていると、それはユラユラと沈みながら、やがて海底へと落ち着いた。
しばらくするとそれはモゾモゾと動いたり、ピョンピョン飛び跳ねながら、徐々に影の主の方向へと近寄っていく。「これはいったい何なんだろう?」と思ったそのとき、近所に棲むカサゴの「パックン」がそれに飛びついた。
およそ普段からのノンビリした動きからは考えられないほど、彼は素早くそれに近づき、躊躇しながらも動きにつられるように近づいていく。ついに我慢しきれなくなったのか、パックンは自分の頭より大きく口を広げて、それが止まった瞬間に咥えた。
ところが次の瞬間に、パックンはその大きな体が30cmほど一気に浮き上がった。何が起きたのか分からないまま、そこからどんどん水面の方へと浮き上がっていく。パックンは抵抗しているのか海底に頭を向けているのだが、体の動きが思うようにならないようだ。そして影の主のそばまで浮き上がると、「スッ」と海の外へと出て行ってしまった。
遠くの方でパックンが叫んでいるような気がした。「助けてくれぇ〜」・・・と。「そうか、これが釣りってやつか。やっぱりさっきのはルアーと呼ばれているやつで、ボクたちはエサと間違えて食べちゃいそうになるやつなんだ!」と、そのとき初めて気がついた。
静かだったボクたちの棲家は、最近になって夜の影の主が多くなっていた。そのたびに仲間のカサゴたちがいなくなり、そして今日も目の前から友達のパックンが消えた。パックンはいつもみんなの食事を横取りするほどの大食いで、今日も目の前にきた食事に我慢することができなかったみたいだ。
いつも食事を横取りされていたので、心の底では「いい気味だ・・・」と思っていたかも知れない。でも目の前で仲間がいなくなるのを見てしまうと、「次が自分の番?」という不安もボクの脳裏をよぎった。
その後も何度かルアーらしい「それ」が投げ込まれてきたけれど、パックンがいなくなる一部始終を見ていたボクたちは、誰もそれに見向きもしなかった。そして影の主はいなくなり、再びボクたちの棲家には静寂が訪れた。
いなくなっていた海面の小魚たちも、いつの間にか近くへ戻ってきて、何事もなかったように群れで海面付近を泳いでいる。ときおり常夜灯が照らしている海面で何かを食べている。明かりに集まってきたプランクトンなのだろうか。
小魚たちはこのように常夜灯で照らされた場所に集まってくる。プランクトンを食べにきているようで、これが食物連鎖と人間たちが言っていることなのだろうか。時にはボクたちカサゴも、その小魚を食べることがある。夜は警戒心が薄れるから、ボクたちも浅い場所で小魚を追いかけることがある。でも今日はそんな気にもなれない。仲間がまたいなくなったのだから・・・。
静寂が訪れ、仲間のカサゴたちは再び岩の下などから顔を出し始めた。そしてさながら井戸端会議のように、みんなで集まって会話を始めた。みんなさっきのパックンがいなくなったことで、ついにここにも影の主の魔の手が伸びてきたことを知った。
「さっきのみたかぁ?」
「うん、見たよ。パックンがアレを咥えた途端に、急に体が浮き上がった。そのまま嫌がっているパックンが水の外に連れて行かれちゃったよね」
「あれが釣りってやつなの?」
「どうやらそうみたいだな」
「本物の食事じゃなかったのかな?」
「違ったみたい。あれじゃあ騙されちゃうよ」
「イヤだなぁ〜。オレも騙されそう」
「これじゃあ安心して食事ができないよなぁ〜」
カサゴたちは延々と静寂の中で話し続け、いつまで経っても帰ってこないパックンよりも、自分たちのこれからを心配するようになっていた。気がつくと空が明るくなり始め、そして長い夜が終わった。
明るくなってきたので、カサゴたちはそれぞれの岩の下へと再び戻っていった。明るいと目立ってしまうので、ボクたちカサゴは夜の間に活発な行動をする。
昼間でもエサを食べるんだけど、岩の下から出て行くようなことはあまりしない。それが危険なことだと、ボクたちは本能で知っているから。だけど夜になると活発に積極的な捕食をするから、それを知っている影の主がやってくる。ボクたちの本能を利用して、仲間をさらっていくんだ。
昼間は家族連れなどが釣竿を持って、好き勝手に釣りの仕掛けを投げ込んでくる。あまりにもうるさいので、ボクたちはいつも無視することにしている。だってそれが明らかに釣りだって分かっているし、食べたら釣られることも知っている。
ときどき同じような場所にいるベラくんやフグくんたちが、その仕掛けを見破っている。上手に口の先だけでエサをかじりとって、お腹をいっぱいにしながらも知らんぷりをしている。
そこにはエサがなくなった釣り針だけが陽射しで光っている。よ〜く目を凝らして見てみると、その釣り針の先には釣り糸のようなスジが上に向かって伸びているのが見える。
ときどき仕掛けは海の中からいなくなり、再びジャボンという音と共に沈んでくる。そしてまたフグくんが近寄っていく。今度はいたずらしたくなったのか、その上に伸びている釣り糸らしき部分に近寄っていく。エサのすぐ上の部分を「ガジガジ」とかじりながら、これまた知らんぷりしている。
仕掛けの糸はユラユラと漂っているけれど、釣り針のついたエサだけは、海底に転がっている。フグくんはそれからノンビリと、その釣り糸から解き放たれたエサを食べている。岸壁にいるファミリーたちはそんなことは知らず、みんなでお弁当のおにぎりを口いっぱいに詰め込んでいる。
口をパンパンに膨らませた子供が、釣竿を持って岸壁に立った。口をモグモグと動かしながら、投げ込んであったその仕掛けを上げている。エサどころか釣り針までなくなっているなどとは知らずに。そして仕掛けは海面から出て行った。案の定、岸壁ではその仕掛けをあげた子供の声がした。
「おと〜さ〜ん、これハリがついてないよ〜」
「え〜っ?根掛かりしたのを無理に引っ張ったんだろう!」
「違うよぉ〜、ただリールを巻いただけだよ〜」
仕掛けをあげた子供は、本当にリールを巻いただけなんだけどね。当然、根掛かりなんかしてない。だってそこにいたフグくんが、仕掛けの糸をかじってちょん切っちゃったんだから。
海の外の会話が聞こえてくると、時にはこんないたずらができるフグくんたちがうらやましくなることもある。だから昼間は岩の下でじっとしているボクたちも、そんなようすを見ちゃうとうずうずしてくる。でもときには失敗して釣り針にかかっちゃうフグくんもいて、海の外では半ば怒りにも似たような声が聞こえてくることもある。
「なんだよ〜、フグじゃね〜かよ〜。こいつがさっき仕掛けをダメにしたのかぁ〜」
「こいつが集まってくると釣りにならねぇ〜よな〜」
「おい、邪魔だからそこに逃がすなよ。また切られたらイヤだからな」
「おう!その辺にほっぽっとくよ」
エサ盗りに失敗して釣られたフグくんは、無残にもこうして岸壁の上で干からびてしまうこともある。ときには大きな鳥が急降下してきて、元気なうちに咥えて飛び去っていくこともある。鳥がいなくても、近くの猫たちが寄ってきて、忍び足で咥えて去っていくこともある。
心ある人が運良く通りかかると、かわいそうに思われて海の中へ帰ってこれることもある。だけど水のない岸壁の上に転がされた体は、無残にも火傷状態になっている。徐々に体のその部分からおかしくなって、しばらくすると死んでしまうことが多い。
陽射しが徐々に傾き、辺りは薄暗くなってきた。再びボクたちの棲家に夜がやってきた。カサゴは夜になると活発にエサを食べに行動する。今夜は誰もいなくならないだろうか。みんな自分は大丈夫と思っているんだろうけれど、実際にはそのときになってみないと分からない。
全部がエサじゃないと疑っていたら、何にも食べれなくなっちゃう。そうかといって勝負をかけて食べてみたら、実はそれがルアーだったなんてことになったら、自分の一生もそこで終わってしまう。ボクたちは、食べることそのものにも、命をかけなければならないんだ。昔はこんなに危険な海じゃなかったんだけどなぁ〜。
月明かりが海面を照らすようになったころ、今夜もまた影の主がやってきた。昨晩は白っぽいのがユラユラと気になったけど、今日は違うものが沈んできた。ちょっと細くて、何となくポワァ〜ッと光っているように見える。
昨日以上に魅力を感じるけど、「もしかしたら!」と思うと飛び出せない。すると隣のカサゴの子供「チーちゃん」が飛びつき、昨日のパックンのように海面から引き出されていった。チーちゃんのお母さんは突然のできごとに驚き、大きな口をポカ〜ンと広げたまま動けずにいる。体の半分を岩の下から出して、じっと上の方を眺めている。すると岸壁の方から影の主の声が聞こえた。
「な〜んだ、小さな子供じゃないか。安心しな、逃がしてあげるから」
影の主はチーちゃんの体を火傷させないように、釣り針を持ってそっと外してくれた。チーちゃんはポチャンと海面に落ち、大した傷を受けることもなく海底の棲家へと戻ってこれた。近くで見ていたボクもホッとひと安心だ。
チーちゃんのおかあさんは何が起きたのか分からないまま、チーちゃんが帰ってこれたことを泣きながら喜んでいる。当の本人であるチーちゃんは、まったく懲りておらず海面の方向をジッと眺めている。その眼差しは、「来たらまた食べるぞ〜」と言わんばかりだ。子供はホントに怖いもの知らずのようだ。
この夜は影の主も早く帰り、静寂は思いのほか早くやってきた。しかし海底では、子供さえも連れて行かれそうになったことと、無事に戻ってこれたことの騒ぎで食事の雰囲気はなくなっていた。
ふと気づくと、いつもの小魚たちが海面付近に見えない。どこに行ったのだろうかと大きな目で見回してみると、海へ斜めに入り込んでいる岸の近くに、みんなで集まって泳いでいる。スロープと呼んでいる声を聞いたことがある。
今は海面の位置が高く、そのスロープの近くにいつもの小魚たちは集まっていた。そこにも常夜灯があって、ここからは目と鼻の先だ。ちょっと冒険して、そこまで行っても大丈夫だろうとボクは思った。
最近は海底に落ちてくるエサみたいなルアーが気になって、自分の家では安心して食事ができない。たまにはいつも頭の上を泳いでいる小魚たちでも食べたいな・・・と思うのに時間はかからなかった。
常夜灯の照らすスロープは明るいが、その縁の部分は影になっている。その影の中へ横の方から忍び込んで、徐々に小魚たちの真下へと移動していく。気づかれないように近づき、そのタイミングを見計らうことにする。
スロープの縁の部分は浅いから、ボクたちみたいに海底に棲んでいるカサゴでも、ひと泳ぎで水面の小魚を食べにいくことができる。下から小魚を見上げていると、わずかな寄せ波と引き波で、小魚の群れは漂っている。月明かりに小魚のシルエットが浮かび上がり、ボクはそのチャンスを伺っていた。
すると寄せた波がサ〜ッと引く瞬間に、群れからちょっとだけ離れた1尾の小魚が見えた。「チャンスだ!」と本能で感じたボクは、その小魚に向かって飛びついていた。パクッと小魚を咥えると、ボクの口に痛みがはしった。「痛い!」そう思った次の瞬間に、ボクはスロープの岸に向かって引きずられていった。
そう、気がついてみると、ボクが小魚だと思って飛びついたのは、ルアーだったんだ。小魚の姿をしたミノーって呼ばれているルアーらしくて、まんまとボクは騙されてしまった。
最近は海底のルアーばかりだったし、まさかスロープで影の主が釣りをしているなんて、まったく考えてもいなかった。影の主が早くいなくなったのは、帰ったんじゃなくて場所を変えてこのチャンスを伺っていただけだったのだ。
「やったぜ。小魚がいたからミノーでやれば釣れると思ったんだ。カサゴくん、楽しませてくれてありがとう」
そう口にしながら、影の主はボクの体に触れないよう、そっとハリから外してくれた。そのときボクは初めて、影の主の顔を見た。ちょっと小太りで丸顔、そして髭をちょっとだけ伸ばした優しそうなおじさんだ。魚釣りをホントに楽しんでいるような雰囲気があった。
ボクはスロープからそっと海の中へ戻されて、とりあえず慌ててスロープの枕木の裏側に隠れた。そ〜っと振り返って影の主のようすを見ると、突然「バッシャ〜ン」という物凄い音がした。
慌ててスロープから離れると、その音はスロープの水際から聞こえているようだった。近くの岩陰に隠れてスロープを見ると、そこには転んでいる影の主の姿があった。濡れたスロープからボクを海に返すとき、影の主が足を滑らせて転んでしまったようだ。ボクは思わず吹き出してしまい、その影の主の失態をしばし眺めていた。
そういえばパックンは帰ってこれなかったけど、何でだろう。このおじさんがあの時の影の主だったら、たぶん海に返してもらえたんだろうけどなぁ。違う人だったのかなぁ〜。釣りをする人って、それぞれで違うんだなぁ〜。
ボクは釣られちゃったけど「ほんわか」した気分のまま、スロープをあとにして棲家の岩陰に戻った。仲間たちもそこで待っていて、さっきの物凄い音は何だったのかと聞いてくる。ボクは一部始終をみんなに話して、釣られたことに驚かれながらも、影の主の話を聞いて笑っていた。
釣り人って、ほんとにいろんなことを考えている。ボクたちカサゴの気持ちも見透かされているみたいで、ときにはエサを食べるのも命がけ。ボクたちカサゴだって、小魚とかを食べたりするし、相手を知っていれば自分たちの食事や生活も楽になるかも。この夜の体験を一生忘れないぞと、ボクは心に誓ったのであった。 |
|