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海岸線のゴロタ磯に、いつもと同じような朝がやってきた。水平線から朝日が顔をのぞかせて、東の空を明るく見せ始めていた。半島のように突き出したこの岬では、夏になると多くの磯遊びの人で賑わっている。きっとこの日も、たくさんの人が集まってくるだろう。網を持って潮だまりの小魚をすくったり、岩の上をすばやく動き回っているカニを捕まえたり、毎日がにぎやかで楽しい場所になっている。
このゴロタ磯に棲んでいるムラソイのムッキーは、大きな岩の下に隠れながら、上から逃げ落ちてくるカニを食べて大きく育っていた。今日もまた、たくさんの人が集まってきて、カニを驚かせながら岩から落としてくれるのを待っていた。なかなか逃げ落ちてこないカニにしびれをきらしていると、いつの間にか周りの水が少なくなっていた。今日は大潮だから、干潮になるとここも水がなくなってしまう。ムッキーは岩陰を渡り歩くようにしながら、少しずつ水がまだある方向へと移動を繰り返していた。
所々にある潮だまりには、小さなボラやハゼなどが泳いでいる。小さくてあまり食べた気がしないけれど、お腹が好いていたムッキーは少しずつ食べながら泳いでいた。岩陰に身を潜めて、目の前の小魚に向かって一気に飛びかかる。パクッと咥えたら、また少し移動するといった具合だ。こうしてムッキーは、お腹がいっぱいになってきた。気がついたころには朝の棲家からは随分と離れていた。いつしか陽射しも強くなり、かなり高い位置からゴロタ磯を暑くしている。
太陽が真上にきた頃、ようやくゴロタ磯の陸地では、いつものような騒々しい声が聞こえ始めていた。磯遊びを楽しみにきた人間が、ワイワイガヤガヤと叫びながら遊んでいるようだ。ムッキーは、「今日は人がくるの遅かったな・・・」と思った。岩の陰から岸のほうを覗いていると、子供たちが網を片手になにかをすくっている。「きっと潮だまりの小魚と遊んでいるんだろうなぁ〜」と、ほんわかした気分で眺めていた。
日陰のほどよい陽射しで、ムッキーはいつしかうたた寝をしていた。岩に砕け散る波の音で目を覚ますと、いつの間にか上げ潮で朝の場所まで水が打ち寄せている。近くを見回してみると、友達のムラソイたちは岸に向かって岩陰に隠れながら移動している。夕方になって辺りは静かになった。網を持って遊びまわっていた人間の子供たちも、すでに姿が見えなくなっていた。ムッキーも仲間たちと一緒に、少しずつ岸近くの浅場へ移動を始めた。
夕暮れになって、辺りが薄暗くなり始めた。近くには、夜になると元気になるカサゴ君たちが、岩から離れた場所でウロウロと散歩を始めている。ムッキーたちムラソイは昼間でも大胆な行動をしちゃうけど、カサゴ君たちは昼間は岩陰で静かにしている。食事も目の前に流れてこなけりゃ、まったく食べようとしない。めんどくさがり屋なのか、それとも警戒しているのか、ムッキーにはよく分からなかった。
ゴロタ磯に、静寂の闇が訪れた。ここには常夜灯なんてない。夜になれば暗くなり、闇を照らすわずかな明かりといえば、晴れているときの星空と月明かりだけ。でもたまにチラチラと明かりが見え隠れすることがある。ライトを持って夜中にやってくる人間もいるのだ。人間の世界では密漁と言っているらしく、内緒でアワビやサザエなどの美味しい貝を、勝手に採っていくらしい。ムッキーには関係ないけれど、せっかくの暗闇で明かりを照らされちゃうから、この人間たちがくると機嫌が悪くなっちゃう。
真夜中の日付が変わる頃、ライトを照らしていた密漁者もいなくなった。海には再び静寂が訪れていた。午後の昼寝をしていたムッキーは、ちょっとばかり目がさえちゃっている。もうちょっとだけ、近くをウロウロしながら遊びたかった。月明かりに照らされた近くの岩の上には、カニたちがはりついている。ときおり波が岩の上にかかり、その波でカニたちは岩から押し流されていた。ムッキーにはその光景が面白くて、しばらく見ていても飽きなかった。ところがカニにしてみれば大変で、落ちたところをムッキーに食べられやしないかと、真剣におびえながら岩にしがみついていた。ムッキーはカニたちが嫌がっているのが分かったので、かわいそうになってその場を移動した。いつでも目の前のモノを食べるんじゃなく、お腹がすいたときにだけ食べているんだ。
しばらく移動を繰り返していると、ちょっと大きめの潮だまりに辿り着いた。そこには月明かりに照らされた小魚がいた。その小魚たちは、岩肌へ寄り添うようにして集まっていた。外敵から身を守るためなのだろうけど、ムッキーにはバレバレの隠れかただ。思わず笑い出してしまうそうなのを、グッとこらえていた。バレバレなのを小魚たちに知られてしまうと、本当に食べたくなったときに、小魚たちを食べにくくなっちゃうから。いまはジッと我慢しておこうと思った。
のんびり夜の散歩を楽しんでいると、いつのまにか東の空が明るくなり始めた。夜明けだ。ムッキーは、なんだか急に眠くなってきた。岸沿いの岩陰で、ムッキーは不覚にも寝込んでしまった。目が覚めたときは、なんだかやたらと暑く感じていた。慌てて周囲を見回すと、ムッキーの近くにはいつの間にか水がなくなっていた。わずかにムッキーの体を隠せる程度の水が、岩陰に残っているだけだった。慌てたムッキーは沖へ戻るルートを探そうとしたが、完全にその道は絶たれているようだった。陽射しはまだ真上じゃなく、潮も下げきっていないようだ。まだ水が少なくなるかもしれない。ムッキーは自分が干からびてしまうんじゃないかと、心配でドキドキし始めていた。
いつものようにゴロタ磯にはたくさんの人がいて、岩の上をドスドスと飛び回っている。ムッキーが潜んでいる岩の上も、誰かが飛び乗ってきた。ズシ〜ンと脳天に音が響き、わずかに残された水が大きく震動した。人間に見つかったら、そのまま捕まってしまうかも知れない。ムッキーは水がなくなることと、自分が人間に捕まってしまうこと、その2つの脅威を感じ始めていた。しかしあまりにも水のない場所に取り残されてしまっていたので、人間がムッキーの存在に気づくことはなかった。それがせめてもの救いであった。
あれから2時間ほど経っただろうか。ようやく潮が上げ始めて、ムッキーの近くにも波の音が聞こえ始めていた。ムッキーのいる場所の水は、すでにほとんどなくなっていた。背ビレは水面から出てしまい、潜んでいる岩の天井に触れてしまっている。体が部分的に乾き始め、しかも暑さでわずかな水はかなり温まっていた。「死んでしまうかも・・・」、とそう思っていたときに、潮が入り込み始めてきた。ムッキーは自分のいる場所に上げ潮が入り込んでくることを、今か今かと待ち望んでいた。徐々に波の水が入り込み始めて、周りの水が増え始めた。それと同時に水温も下がり始めて、干からびかけていたムッキーの体を、気持ちよく潤し始めてくれていた。
ちょっとだけムッキーは心強く感じ、生きる元気をもらっていた。ムッキーはこのときほど、水の大切さを感じたことはなかっただろう。徐々に潮位が高くなり、ようやくムッキーの居場所にも海水が溜まってきた。「あと少しだ。もう少しであの通り道から出られる!」と、ムッキーは独り言をしゃべっていた。磯の潮だまりに取り残されたムラソイがいたら、人間は笑ってしまうかも知れない。だけどムッキーにとっては死活問題で、笑いごとではない。
そしてそのとき、ひときわ大きな波が「ザッバ〜ン」と押し寄せてきた。ムッキーは体力が落ちていたので、その波で体を「フワッ!」と持ち上げられてしまった。慌てて岩の下へ戻ろうとするが、すでに体は思うように動かない。寄せた波が戻っていくとき、ムッキーはそのまま押し流されるように泳いでいった。途中の岩に体をぶつけたりもしたけれど、波が緩くなった頃には広い場所へ戻っていた。そう、ムッキーは波のおかげで、無事に海へ戻ることができたのだ。ちょっとした居眠りで大変なことになるところだった。しかしムッキーは海に戻れたことで、本当に良かったと思っている。「もう夜遊びはしないぞ!」と、心に決めたムッキーなのであった。 |
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