第3話 「今日は本当に散歩」    
 
 あれから数日が過ぎた。

 今日も朝からよく晴れている。

 窓の外では、春らしい柔らかな風に木の枝がゆっくり揺れていた。

  「よし」

 玄関で靴を履いた。

 今日は散歩だ。

 間違いなく、散歩だ。

 この前のように、釣り竿なんて持っていない。

 念のため……などという意味不明な理由で、釣り竿を持って出たりもしない。

 財布。

 スマホ。

 家の鍵。

 以上。

  「これが普通の散歩だよな」

 満足そうに玄関を出た。

 別に誰かに疑われているわけではない。

 それでも今日は、なぜか自信があった。

 住宅地を抜け、いつもの道を歩く。

 前に見つけた道端の小さな花は、まだ咲いていた。

  「まだ咲いてるな」

 少しだけ立ち止まる。

 そして、また歩き出す。

 今日も特に行き先は決めていない。

 けれど、しばらく歩いていると風の匂いが変わった。

  「…………」

 気がつけば、また海へ向かっていた。

  「まあ、散歩だからな」

 散歩なのだから、どこを歩いてもいい。

 前にも同じことを考えたような気がする。

 角を曲がる。

 海が見えた。

 春の陽射しを受けた水面が、今日もきらきらと光っている。

 少し立ち止まって海を眺めた。

  「いいな〜」

 そして、そのまま港へ向かった。

 港の中を覗く。

 小さな魚が泳いでいる。

 前に見た魚より増えているような気がする。

  「お〜、いるいる」

 立ち止まる。

 しばらく見る。

 また歩く。

 別の場所で水面を覗く。

 また立ち止まる。

 散歩なのだから、別に急ぐ必要はない。

  「何してんだ?」

 突然、後ろから声をかけられた。

  「うわっ!」

 振り返る。

 この前の漁師だった。

  「びっくりした〜」

  「魚でもいたか?」

  「小さいのがいっぱいいますよ」

  「そりゃ魚くらいいるだろ。海なんだから」

  「そうなんですけどね」

 漁師は手元を見た。

  「今日は竿、持ってねえのか?」

  「今日は本当に散歩です」

 少し得意そうに言った。

  「この前だって散歩って言ってたじゃねえか」

  「あれは……まあ、ちょっと特殊な散歩です」

  「なんだよ、特殊な散歩って」

  「今日は違います。ほら」

 両手を広げた。

  「竿、ありません」

  「…………」

 漁師は何も言わない。

  「今日は本当に、ただ歩いてるだけです」

  「…………」

 漁師はこちらを上から下まで眺めた。

  「なんですか?」

  「いや……」

 もう一度、こちらを見る。

  「それで散歩か〜?」

  「え?」

  「それ」

 漁師が胸元を指さした。

  「…………?」

 自分を見る。

  「…………」

 もう一度見る。

 着ていた。

 フローティングジャケットを。

  「…………」

 しばらく黙った。

  「なんで?」

  「こっちが聞きてえよ」

  「いや、今日は本当に散歩なんですよ」

  「だから、なんで着てんだよ」

  「…………」

 思い出してみる。

 家を出る前。

 靴を履いた。

 財布を持った。

 スマホを持った。

 鍵を持った。

 そして……。

 いつもの場所に掛けてあったフローティングジャケットを、何の疑問も持たずに着た。

 たぶん、そういうことだ。

  「……癖ですかね?」

  「知らねえよ」

 漁師が笑った。

 つられて笑った。

 別に釣りをするわけではない。

 船に乗るわけでもない。

 今日は本当に、ただ海まで歩いてきただけだ。

 それなのに、フローティングジャケットだけはしっかり着ている。

  「まあ、海に来るんだからいいか」

  「何が?」

  「いや、こっちの話です」

 港の中へ目を戻した。

 小さな魚たちは、何事もなかったように水面の下を泳いでいる。

  「そういや」

 漁師が言った。

  「この前の魚、うまかったか?」

  「うまかったですよ〜」

  「そうか」

  「でも、発泡クーラーと氷を買いましたからね」

  「ははは」

  「笑い事じゃないですよ。魚買ったほうが安かったかもしれない」

  「じゃあ今度からクーラー持ってこい」

  「いやいや」

 笑いながら首を振った。

  「散歩にクーラーなんて持ってきませんよ」

  「…………」

 漁師が、フローティングジャケットを見る。

 自分でも、フローティングジャケットを見る。

  「…………」

  「説得力ねえな」

  「……ですね」

 春の港に、二人の笑い声が響いた。

 しばらくして、また歩き始めた。

 今日は釣り竿もない。

 クーラーもない。

 魚をもらう予定もない。

 ただ歩くだけ。

 今度こそ、本当に散歩だ。

 フローティングジャケットを着ていることを除けば。

 海から吹いてきた風が、頬をなでていく。

 少し笑いながら、港をあとにした。





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