あれから数日が過ぎた。
今日も朝からよく晴れている。
窓の外では、春らしい柔らかな風に木の枝がゆっくり揺れていた。
「よし」
玄関で靴を履いた。
今日は散歩だ。
間違いなく、散歩だ。
この前のように、釣り竿なんて持っていない。
念のため……などという意味不明な理由で、釣り竿を持って出たりもしない。
財布。
スマホ。
家の鍵。
以上。
「これが普通の散歩だよな」
満足そうに玄関を出た。
別に誰かに疑われているわけではない。
それでも今日は、なぜか自信があった。
住宅地を抜け、いつもの道を歩く。
前に見つけた道端の小さな花は、まだ咲いていた。
「まだ咲いてるな」
少しだけ立ち止まる。
そして、また歩き出す。
今日も特に行き先は決めていない。
けれど、しばらく歩いていると風の匂いが変わった。
「…………」
気がつけば、また海へ向かっていた。
「まあ、散歩だからな」
散歩なのだから、どこを歩いてもいい。
前にも同じことを考えたような気がする。
角を曲がる。
海が見えた。
春の陽射しを受けた水面が、今日もきらきらと光っている。
少し立ち止まって海を眺めた。
「いいな〜」
そして、そのまま港へ向かった。
港の中を覗く。
小さな魚が泳いでいる。
前に見た魚より増えているような気がする。
「お〜、いるいる」
立ち止まる。
しばらく見る。
また歩く。
別の場所で水面を覗く。
また立ち止まる。
散歩なのだから、別に急ぐ必要はない。
「何してんだ?」
突然、後ろから声をかけられた。
「うわっ!」
振り返る。
この前の漁師だった。
「びっくりした〜」
「魚でもいたか?」
「小さいのがいっぱいいますよ」
「そりゃ魚くらいいるだろ。海なんだから」
「そうなんですけどね」
漁師は手元を見た。
「今日は竿、持ってねえのか?」
「今日は本当に散歩です」
少し得意そうに言った。
「この前だって散歩って言ってたじゃねえか」
「あれは……まあ、ちょっと特殊な散歩です」
「なんだよ、特殊な散歩って」
「今日は違います。ほら」
両手を広げた。
「竿、ありません」
「…………」
漁師は何も言わない。
「今日は本当に、ただ歩いてるだけです」
「…………」
漁師はこちらを上から下まで眺めた。
「なんですか?」
「いや……」
もう一度、こちらを見る。
「それで散歩か〜?」
「え?」
「それ」
漁師が胸元を指さした。
「…………?」
自分を見る。
「…………」
もう一度見る。
着ていた。
フローティングジャケットを。
「…………」
しばらく黙った。
「なんで?」
「こっちが聞きてえよ」
「いや、今日は本当に散歩なんですよ」
「だから、なんで着てんだよ」
「…………」
思い出してみる。
家を出る前。
靴を履いた。
財布を持った。
スマホを持った。
鍵を持った。
そして……。
いつもの場所に掛けてあったフローティングジャケットを、何の疑問も持たずに着た。
たぶん、そういうことだ。
「……癖ですかね?」
「知らねえよ」
漁師が笑った。
つられて笑った。
別に釣りをするわけではない。
船に乗るわけでもない。
今日は本当に、ただ海まで歩いてきただけだ。
それなのに、フローティングジャケットだけはしっかり着ている。
「まあ、海に来るんだからいいか」
「何が?」
「いや、こっちの話です」
港の中へ目を戻した。
小さな魚たちは、何事もなかったように水面の下を泳いでいる。
「そういや」
漁師が言った。
「この前の魚、うまかったか?」
「うまかったですよ〜」
「そうか」
「でも、発泡クーラーと氷を買いましたからね」
「ははは」
「笑い事じゃないですよ。魚買ったほうが安かったかもしれない」
「じゃあ今度からクーラー持ってこい」
「いやいや」
笑いながら首を振った。
「散歩にクーラーなんて持ってきませんよ」
「…………」
漁師が、フローティングジャケットを見る。
自分でも、フローティングジャケットを見る。
「…………」
「説得力ねえな」
「……ですね」
春の港に、二人の笑い声が響いた。
しばらくして、また歩き始めた。
今日は釣り竿もない。
クーラーもない。
魚をもらう予定もない。
ただ歩くだけ。
今度こそ、本当に散歩だ。
フローティングジャケットを着ていることを除けば。
海から吹いてきた風が、頬をなでていく。
少し笑いながら、港をあとにした。
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